沖の干潟遥かなれども

昨年末、親友が亡くなった。大学で知り合った十数年来の友人で、卒業後は離れたところに住んでいながらも定期的に顔を合わせていた。彼はいわゆる「趣味人」で幅広い分野に造詣が深い。ぼくはそんな彼の心の豊かさに憧れていた。大人になると、利害関係のある人間とばかり付き合うようになるが、彼と話しているときは利害を離れた文化的な世界に入り込むことができた。もう二度と会うことができないiと思うと、身体の一部を失ったような痛みを覚える。


死因は突然の心臓発作である。30代という若さ、奥様が妊娠中での出来事だ。幸せの最中だったに違いない。これから生まれてくる子どもを自分の手で抱っこしたかっただろうと思うと、やるせない、たまらない、悔しいといった言葉では表現し尽くせない気持ちになる。いい人ほど早く逝くとも言われるが、本当にそのとおりだ。なぜ、今、彼でなければならなかったのか。


徒然草第155段では、死は自覚しないうちに背後から迫ってくることを、いつの間にか潮が満ちていることに例えている。

 

四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。

死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。

人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。

沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。


穏やかでない心を鎮めるために、今更ながら、ブログを始めることにした。趣味人であった彼の真似事だ。