記事『私の履歴書 樂直入』2020年2月連載

日経新聞で毎月連載している私の履歴書。毎月読んでいるけど、当たりはずれが大きい。
最近だと、昨年9月連載の一橋大学名誉教授野中郁次郎や、昨年11月連載のファンケル長池森賢二の連載が面白かった。その後あまり印象に残っていなかったが、今月の連載は面白い。

 

執筆しているのは、第十五代樂吉左衞門、樂直入。全く存じ上げなかったけれど、非常に高名な茶碗師樂家の陶工。

 

肩書が高尚すぎて、芸術に疎い凡人が読んでもなぁと思っていたが、面白い。

 

茶碗師樂家の長男として生まれ、大学時代には芸術という自己表現が傲慢だとという思いに苦しむ。しかし、器物が持つ「用」という優しさに導かれて陶芸の道へ進む。

「最も嫌なこと、それは父に似た、同じような茶碗を作ることだった。」

 

素直に凄いなあと溜息が出る。芸術の道を理解したような気にさせてくれる。

書籍『大手広告代理店のすごい舞台裏-電通と博報堂が圧倒的に強い理由』本間龍 2012年7月5日

感銘を受けたというほどではないが、なんだかんだで面白かったので備忘のために記載する。


大手広告代理店の業界研究にと思い、軽い気持ちで手に取ったこの本。

 

博報堂営業マンの著者が、大手広告代理店の実態を赤裸々に綴る。前半は下世話な話題ばかり。タクシーの乗車拒否が横行していた時代、取引先との接待の後にタクシーを止めるため部下2名で車線を封鎖した等々、面白おかしく軽快な書きぶりである。

後半では業界構造が分析されている。本書の締めくくりでは、広告代理店アサツーディ・ケイが政府の「原子力安全情報広聴・広報事業」の委託を受けてツイッターやインターネット上の情報を常時モニタリングし、不正確とされる情報等に対して「速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導く」業務に従事したことに触れる。このような政策的・国民監視的な分野に大手広告代理店が手を染めた場合、夢を売る「広告代理店」としての歴史が消滅することを危惧していると述べる。

著者の一歩引いた冷静な視点が面白いのだろう。原発広告について複数の著作がある模様。

 

この本の中で紹介されている「電通洗脳広告代理店」苫米地英人も気になる。だいぶ過激なタイトルだがどんな中身なのだろうか。

私たちがいない世界で

万が一、災害や事故で妻と私が同時に死ぬようなことがあったとき、幼い子どもたちは幸せに生きていくことができるだろうか。保険金は沢山入るだろうけど、誰に面倒を見てもらえばいいか。両家の祖母や祖父なら誰でも惜しみない愛情を注いで育ててくれるだろう。しかし、年齢や健康状態から育てられないということもあり得る。では、叔父や叔母はどうか。叔父や叔母には自分たちの子どもがいる。親族とはいえ、他所の子どもを自分の子どもと同じように愛情をもって育てられるだろうか。自分自身に置き換えて考えたとき、自信をもって答えることができない。自分の子どもというのはやはり特別だ。
ハリー・ポッターは、両親の死後、叔母の家庭で預けられ、十分な愛情を受けることができずにいた。彼は、魔法を知り、自分だけの世界を手に入れた。
子どもに魔法を教えることは叶わないし、万全の策を講じることもできないだろう。せめて子どもたちのために今できることを備え、子どもたちがどんな環境におかれようとも自分の幸せを見つけて生き抜くことができるような力を身につけさせたい。

書籍『虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか 』リチャード・ドーキンス 2001年3月

ニュートンが太陽光をプリズムで7色に分光したとき、詩人ジョン・キーツらは「虹の持つ詩情を破壊した」と非難した。

しかし、ニュートンの発見により、我々は、虹の美しさがそれ自体の持つ固有の美しさに由来するのではなく、我々の眼が光の波長を色として識別できることに由来し、すなわち我々自身が持つ眼という奇跡的な機関の存在に対する賛歌であると気付かされたはずだ。

虹自体の美しさが失われたという意味ではジョン・キーツの指摘のとおりかもしれないが、「生命に対する賛歌であり祝福」という更に深い美しさを明らかにしたのだと感じる。
リチャード・ドーキンスは、これを科学が持つ抗しがたい魅力「Sense of Wonder」という詩的な世界へと導いたのだと評している。

私は、私自身が持つ神秘さに「Sense of Wonder」を覚えた。

映画『プライベート・ライアン』スティーヴン・スピルバーグ 1998年9月26日公開

冒頭のノルマンディー上陸作戦にて繰り広げられる殺戮の地獄絵図が衝撃だった。戦車が近づいている来る時の地鳴り、耳をかすめる銃弾の音、気付けば火薬と土埃と血の臭いが漂ってくる。常に「次の瞬間に死んでいるのは自分かも知れない」という絶望感を覚えた。
戦争とは人間の常軌を逸した愚かな営みなのだとしみじみ感じ入る。
本作のストーリーは、1人を残して全員の子どもを失った母親のために、残った1人を前線から救出に行くというもの。登場人物も自ら語るが、いわば政府の「広報活動」としてのミッション。
登場人物自身も1人のために何人もの命を犠牲にするミッションに大義があるのか疑問を抱きながら前に進む。どんな最期が待ち受けているのか、目を見張らずにはいられない。最前線では八方ふさがりの絶対絶命の状況下。何が待ち受けているのか・・・。

と、ここまではいいものの、最後の最後でチープなアメリカ映画に成り下がってしまった。
兵士は誰のために何のために戦っていたのだろう。果たして真意だったのか。主人公は意味があったと自分に言い聞かせているが、自分の犯した過ちを正当化するために作り上げた幻想ではないかだろうか。ここを掘り下げて欲しかったのだが、いつの間にかアメリカ万歳の映画になってしまった。え、それでいいの?とツッコミたくなってしまう。

映像美も迫力もあるし没入させるストーリーだし名作であることは間違いないが、「アルマゲドン」等のお涙頂戴の映画と変わらない。

書籍『生命とは何か-物理的にみた生細胞-』エルヴィン・シュレーディンガー 1944年

シュレーディンガー著『生命とは何か-物理的にみた生細胞-』岡小天・鎮目 恭夫訳読了。

 

理論物理学者であるエルヴィン・シュレーディンガーが物理学的見地から生命を分析した歴史的価値ある著作。1944年刊行。

 

物理法則が原子に関する統計的なものであり膨大な原始が存在する場合には近似的に成立するという前提のもと、遺伝子が比較的少数子の原子から成るにもかかわらず、熱力学的ゆらぎに抗い、規則的かつ永続性を持つ仕組みの謎に言及する。この問題についてシュレーディンガーは、遺伝子が非周期性結晶を持つ安定構造であると予言した。
ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリック塩基配列の二重螺旋構造に関する論文が発表した1953年の約10年前に塩基配列(非周期性)の二重螺旋構造(結晶)の存在に言及しているのであるから驚きである。


また、エントロピー増大の法則に反して生物が平衡状態に至ることを免れているのは環境から負エントロピー(原著はnegative entropy)を摂取し、環境に呼吸や発熱等を通じてエントロピーを排出しているからであると論じる。負エントロピー単体の存在は否定されているが、重要な示唆を含むものである。

家に帰るまで待っていて

妻と子どもと一緒にいる瞬間、何にも代え難い幸せを感じる。それゆえに、子どもが生まれる前に亡くなった親友のことを思い、どれだけ無念なことだったろうと胸を締め付けられる。


昨晩、夢で親友に出会った。夢の中、久しぶりに会ったことが面白くてたまらなくなったぼくは俯いてしまい、何も言葉をかけられなかった。何か喋れば良かった。